今・・・このまま中途半端に日本の大学に戻り復学したところで、月子の性格からすぐにアメリカに戻りたいと思うに違いなかった。本当に勉強したいことを専攻したわけではない日本の大学に戻り、以前のような学生生活を送る・・・それは今となっては無意味に思えた。

そのうちダンは3年目に入り、以前よりさらに勉強に没頭するようになっていた。逢えるのは週に2回程度、それも図書館か近くのカフェバーで軽く飲むか、彼の大学のカフェテリアでお茶をする程度になった。それでも、心のどこかで安心していた。漠然とした感覚ではあったが、月子の中では、ダンとは続けていけるという自信があった。だが、破局は突然やってきた。

卒業式直前の日、久しぶりにダンのアパートで大掃除をした。・・・無造作にデスクに置かれ、誰でも読めるような状態の手紙を見つけた。それが別れの切り札になった。いきなり奈落に突き落とされた。婚約者がいたなんて想像すらしなかった。そういうことだったのか・・・なんて鈍感な女だったのか。自分自身が情けなかった。スーパーマーケットに買い物に出ていたダンが戻る前にアパートを離れようと思った。顔を合わせたら、自分が何を口走り、どんな悪態をつくか自信がなかった。醜い女にはなりたくない。心はどうしようもない寒さで凍えた。


バスの窓から見える街は、ボストンでは治安の悪い地区にあった。いわゆる低所得者が多く集まっている・・・ヒスパニック系が一番多い場所だった。

すでに午後2時をまわっていた。到着したバス停にはボブが待っていた。いつものデリカッセンのエプロン姿しか見たことがなかった月子には、黒のハイネックにチャコールグレイのパンツ姿のボブが新鮮に映った。

「こんな所まで来てくれてありがとう」

照れくさそうな顔で月子の手を引いたボブは、バス停からすぐ目の前の古いアパートに案内してくれた。

3階建てのビルは築年数も古く、コンクリートにひび割れも入って僅かに傾いて見えた。気後れしながら入った部屋には、7人ほどの子供達が集まっていた。驚いた。全員がボブの弟と妹で、女の子は3人、男の子は4人、ボブは長男だと言う。 父親がメキシコ系で、母親がインディアン系、そのためかボブの顔は東洋人に近い上、表現できない独特の風貌をしていた。

デリカッセンには毎日のように買い物に足を運んでいて、小さい店のため顔馴染みになるのも早かった。誕生日に招待されて最初は驚き、やんわり断ったのだが、何度か催促されるように誘いの言葉を受け・・・留学中のこれも良い経験になるかもと最後には招待を受けることにした。

ボブには正直なところ、恋愛感情は持てなかった。好感は持てたが、それ以上でもなかったし、それ以下でもない、そんな気持ちだった。

案内された部屋は旧式だが想像以上に広いリビングルームだった。大きなテーブルに椅子がたくさん所狭しと並べてあり、隣の部屋には大きなソファが見えて、そこには大人の男女が4人がお互いを温めるように座っていた。聞くと、ボブにはさらに上の長女と次女がいて結婚して別の場所で生活していると言う。二人の姉妹の夫も同席していたのだ。

挨拶をすると、いきなり「これやる?」と短くなった煙草を差し出しながら挨拶のお返しがあった。月子は一瞬その意味がわからなかった。ボブは慌てて「彼女は違うんだよ」と声を張り上げ、今度は月子に向かって「ごめん、ごめん、いきなりでびっくりしたよね」と謝った。後になってそれがマリファナだと知った。月子には無縁の世界だった。

パーティのためにボブ自らが料理を始めた。チキンの丸焼きと、ポテトサラダ、牛肉のステーキ・・・人数よりは少なめに作ってテーブルに並べ、賑やかな雰囲気でパーティは進行した。

バスの最終便の時間も気になるし、そろそろ帰ろうと思っていた矢先に、玄関のチャイムが激しく鳴った。見るとボブの弟が友達を連れて立っていた。アパートを出て働いている弟がもう一人いることを知り驚いた。いったい何人の兄弟がいるのか。まるで冗談みたいだ。弟が来たから、もう少しゆっくりして欲しいとボブに言われ、あと30分くらいならという条件で残ることにした。テーブルはいつのまにか片付けられ、広くなった部屋には大きな音でBGMが流れ出していた。スローなバラード調の曲だった。                         
 

食後のワインが効いたのか、月子は少し酔ってきた。ちょうど良いほろ酔い気分でいる時に、ボブの弟から突然チークダンスはどうかと誘われた。弟は、ボブより背が高く、さらに東洋的な顔立ちで親しみを感じた。踊っている間、何故だか胸がドキドキしていた。もしかして好きになってしまうかも・・・そんな予感がした。月子のそんな気持ちを感じたのか、ボブは2曲目が終わる頃、割って入るような形で弟から月子引き離した。弟の名前はジェフ、月子と同い年だった。 

最終バスはすでに終わっていた。ボブは車の運転をしない。車も持っていなかった。結局ジェフが車で送ってくれ、それがきっかけでジェフと付き合うようになった。


心理学を専攻するということは、しかもそれを母国語ではない英語で専攻するということは膨大な量の書物との戦いでもあった。英語を母国語とする人達の読むスピードに勝てるわけがない。しかし、同じ書物の分量を読みこなすことを要求される。それも 決められた時間の長さの中でだ。それがどれほど大変なことかは体験者でないと理解できない。月子はこの分野を専攻したことを少し後悔した。すでに2年目に入っていた。挫折するかもしれない・・・そんな危惧も抱いた。

実際、経済的な面でもインターンまで続けることが可能かどうか不安だった。大学を卒業するのが精一杯ではないかと思っていた。それは現実問題として常に頭の中では意識していた。

2度目の恋は出会いから3ヶ月しか続かなかった。ジェフには、学校を優先させる月子を理解する余裕がなかった。毎日のように逢ってお喋りしてということが当たり前の感覚の典型的なアメリカ人のジェフには、留学生の月子がアメリカ人に混じって進学する苦労はわからなかった。

人が人を理解するのには言葉なのだと、人の心に届く言葉が必要なのだと痛感した。心理学を勉強しながら、月子はあらためて言葉の持つ力に興味がいっそう湧いた。 

                       
市が運営する図書館に頻繁に通うようになっていた。課題も多く、調べることは星の数ほどあった。学術的な街と言われるだけあって、図書館の書籍関連はかなり充実していた。ほとんど毎週のように週末を図書館で過ごした。

ある日、勉強に疲れて、日本語の本が置いてあるコーナーで休憩を取っていた時、見知らぬアメリカ人の男性から突然声をかけられた。総合病院でインターンをしていると言う。日本語に興味があるから、日本人と友達になりたいと言う。留学しているのだ、少しでもアメリカ人の友達を作りたいと思っていたはずだった。特別怪しそうな人にも見えなかったので、休憩時間に図書館の近くのカフェでお茶を飲んだ。外科医を目指してインターンをしているけれど、臨床心理学のほうがもっと興味があるのだとその男性は話してくれた。

その時点で2人は意気投合した。名前はブライアン。27歳。外見は全く好みではなかった。だが、いかにも誠実そうで、月子の求める世界を理解してくれそうな相手に思えた。ブライアンとはゆっくりした時間の流れの中で、大人の付き合いをした。時間のある時に彼のアパートに行き、一緒に台所で料理を作ったり、ビデオを観たり、読書したりして過ごした。時には、図書館で半日くらい別々のデスクで過ごして帰り道にカフェバーで飲んでお喋りしたり、今までの中でいちばん楽で静かな付き合いだった。このまま結婚までいきそうな予感すら感じていた。

だが、少しずつ、月子の中でブライアンが重たく感じる瞬間が増えていった。会話をしていて、月子が話すこと全てに疑問符をつけて「何故?」を連発するブライアンに説明することがだんだんと面倒になっていった。

「言わなくてもわかってよ」最後には決り文句のように同じセリフを繰り返す月子に、ブライアンは「言わなくては理解できない。理解してもらえないよ」と反論する。正論なのはわかっていても苛立ちを覚える月子だった。

そして破局はやはり訪れた。イースター復活祭の前日だった。

母親に贈る卵を選ぶのに買い物に付き合って欲しいと言われた。特別予定はなかったが、何故かブライアンに反発する気持ちが芽生えていた。月子は用事があるとやんわり断った。日本人の月子には卵を選ぶくらい何だという軽い気持ちしかなかったが、家族の絆を何よりも大切にしていたブライアンにとっては重要なイベントであり、母親への愛情表現でもあった。

これが2人の亀裂になった。いや、もともと亀裂があったがそこに拍車をかけてしまったというのが正しい。言葉を徹底的に勉強したい、言葉を極めたいと望んでいた筈なのに、何かと言うと言葉攻めのブライアンから逃げ出したい心境だった。それが結局は別れを早めることになった。皮肉なものだと、月子はかなり落ち込んだ。
                     

4年目の夏、月子は学費を稼ぐためニューヨークに出稼ぎに行くことになった。父親の会社が倒産したのだ。突然のことで月子は帰国まで考えたが、卒業までもう少し、ここで学位を取らずに帰国したら絶対後悔する。だが、仕送りが無くなることは学業を断念せざるを得ないことを意味した。そこで、月子は以前お世話になった大家さんに相談した。卒業して社会人になったら分割で返済するという約束で、学費分だけは借りることができた。 生活費に関しては、自分で稼ごうと決意した。大学には事情を話し、1ヶ月分長い休みを取って、約3ヶ月間観光ガイドの仕事をすることが決まった。

ニューヨークは一般の観光客レベルの知識しか無かったが必死に勉強して足で歩いて暗記した。年齢も会社の提案で7歳上の30歳で通すことにした。そのほうが安心してもらえるからという理由だった。出稼ぎ中の滞在先は、会社が特別に提供してくれた家具付きアパートだった。お風呂とトイレは共同だったが、ベッドもあるし、部屋にはミニキッチンも付いていた。


仕事を始めてちょうど2週間が過ぎた頃、ツアー客の中に一人の目立たない男性がいた。美大を卒業して広告代理店でアートディレクターで、仕事に行き詰まりを感じ、ニューヨークに旅行に来たと言う。コースの真中、チャイナタウンのレストランで昼食の間、彼のほうから突然語り出した。月子は、この男性に何故だか妙な親近感を覚えた。

誰かに似ている。誰だろう。ふと思い出した。昔、中学校の時に好きだった男の子に似ている。頼りなさそうな、気弱そうな男の子が月子のタイプだった。自分からラブレターを渡し相思相愛になったが、月子が他に目移りしてほんの数ヶ月でその幼い恋は終わった。

インターネットも携帯も無い時代。手紙で文通をすることになった。彼の名前は山川健、35歳の独身だった。アートディレクターの仕事でイラストやビジュアル系に関わることは多くても、言葉で想いを伝えるのを苦手とした山川の手紙は3回目以降、なかなか届かなくなっていた。仕事で忙しいこともあっただろうが、日本に戻れば日本の生活にまた戻るものなのか・・・月子自身も毎日の仕事で疲れもたまっていき、少しずつ山川のことは忘れていった。残すところあと2週間足らずでニューヨークの仕事を終える。ボストンに戻る時が近づいていた。


朝起きると熱があった。仕事があるのに起きることができない。過労なのかもしれない。若いとはえ、1日も休まず2ヵ月半も働き続けた。仕方なく代理の人にお願いして休むことにした。月子は久しぶりに心細さを覚えた。部屋の小さな窓からはヒルトンホテルが見える。見事な青空に綿菓子のような真っ白な雲がぽっかり浮いていた。ふと、幼少時に田舎で昼寝の合間に見上げた空を思い出した。 

その時突然ドアをノックする音がした。誰だろう? この場所を知っているのは会社の人か、ボストンの親しい友達数人だけのはずだ。「どなたですか?」英語で尋ねると、「会社の浅野です。月子さん、差し入れを持ってきました。ドアの外に置いていきますから、食べて栄養つけてくださいね」聞き覚えのある声だった。総務課課長の浅野さんだった。
                       
「あ、あの…ありがとうございます。横になっているし、パジャマなので…すみません」

ありがたいと思った。1日も休まず働き、早く元気になって今度は最後まで仕事をやり抜こうと思った。自分の都合でアメリカに残る決意をしたのだから、自分の生活費くらいは自分で稼ぐ、もっと強くならなくては・・・と切実に願った。

ボストンの秋は美しい。ボストンの中心にある公園、ボストンコモンには、光輝く陽光が公園に集まる人々を自然と和ませてくれる。時を忘れた恋人達が芝生に寝そべって会話を楽しみ、仲の良い老夫婦は散歩する犬達に目を細め、母親にまとわりついて嬉しそうにはしゃぎまわる子供達、インテリ風の学生がコーヒー片手に読書する姿。それぞれの過ごし方で秋の一日が静かにゆるやかに流れていく。月子はこの季節が一番好きだった。 

久しぶりにダウンタウンで買い物をした帰り道、テイクアウトしたコーヒーとブルーベリーマフィンを食べようと、空いている芝生の上に腰を下ろした。少し肌寒いが平気だった。汗ばむより寒いくらいのほうがむしろ心地良かった。ニューヨークの夏は厳しい暑さだったし、アパートもクーラーが無くて辛かった。今はあの夏の仕事がはるか過去の出来事のように思える。大変だったが、最後までやり遂げた。それが月子に大きな自信を与えてくれた。そんなことを思い出しながらコーヒーを飲んでいると、目の前にいきなり立ちはだかる人がいた。

見上げると、昔世話になった長瀬元が立っていた。本当に久しぶりだった。「長瀬さん!」すっかり日焼けして別人のようだった。

「元気だった?」

「久しぶりです。いろいろありましたけど、元気です。長瀬さん、まだボストンにいらしたんですか?」

最初に会った時にすでに3年半は経っていた。「いや、もう日本に帰国したんだよ。今回は遊びに来たの。長期休暇もらったから。まさかここで再会できるとは思わなかったよ」 その日は予定を返上して長瀬と夜食事をすることになった。卒業してからは小樽にある父親の会社で働いていると言う。すっかり落ち着いた雰囲気になっていた。日焼けしているのは、ハワイに2週間ほど滞在したからだった。 

それにしてもあの日のことを今でも鮮明に覚えている。言葉が全く出てこなくて失語症みたいになったあの時。何もかもが心細くて、涙が止まらなかった自分。今のように、一人でニューヨークに出稼ぎに行くなど、想像さえできなかった。月子は、年月の重さをあらためて痛感した。短いようで長い数年間だったのだ。長瀬との再会の夜は楽しかった。

翌朝、早起きして月子は1時間も早く大学に到着した。今後の進路のことでカウンセラーに相談したいことがあった。インターンが無理だとすると、進路は真剣に考える必要があった。カウンセリングを受けるのはこれが初めてだった。

ドアをノックすると、意外にも若い二枚目風の男性が迎えてくれた。月子は一瞬部屋を間違えたかと思った。

「おはようございます。どうぞ、椅子に座ってください」 

こんなに若くて二枚目がカウンセラーなのかと疑わしい感じがしたが、ネームプレートには「スチューデントカウンセラー ジョン・ギア」とあった。間違いない。疑った自分を心で恥じたものの、やはりどうも現実的な感じがしなかった。この種の仕事をする人は平凡な容姿であって欲しいと願うのは自分だけだろうか。ともかく率直に悩みを打ち明け、今後の方向をどうしたものか相談してみた。彼はずっと何も言わずに話しを最後まで聞いてくれた。そして、最後の最後にこういい残した。

「どんな仕事に就くべきかが問題では無く、どんな生き方をしたいのかを考えることが大切だと、僕は思いますよ」

その言葉が月子の中の何かを突き動かした。来て良かったと思った。ずっと続けていたレストランでのバイトも12月で終えることを決意した。翌年からは卒論の準備と進路のために時間を使うことにした。

帰宅すると、着替えてからレストランに向かった。マネージャーに事情を話し、12月でバイトを終えたいと話すと承知してくれた。昼間は少し肌寒い程度だったが、バイトを終え帰宅する深夜近くは冷え込んでいた。夜空の星も寒そうに震えているように見えた。ボストンの冬はいつのまにか訪れるが、今年の冬はもしかすると、ボストンでの最後の冬になる可能性があった。そう思うと寂しさを覚えた。とにかく後悔したくない。今まで以上に毎日を大切に過ごそうと月子は思った。